神社から300mに木曽川が流れている。天正14年(1586)6月(
旧)の大洪水により木曽川は決壊・氾濫 した。今の堤防はその後の慶長14年(1609)に家康の命により伊那備前守忠次によって築かれた御殿堤だが、当時は堤らしい堤もなく洪水の流れに任せ、中野村と上流隣の東加賀野井村は共に2つに分断された。*その2年前の天正12年(1584)5月、加賀野井弥八郎が率いる加賀野井城は小牧・長久手の戦いで羽柴秀長に敗れ落城している。
日割神社は最も木曽川沿いにあり、大洪水の被害にあったと思われる。そのために本殿をこの高さに置く事になった。天保12年(1843)5月の絵地図には高い石垣の神社が描かれている(地蔵堂も石垣の上)。前述の他の神社を調べると、石垣があるにはあるが木曽川から離れる毎に低くなっている。
木曽川は県境であり、2つの村は岐阜県と愛知県に分断されたままだ。(続く)
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