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2017年8月15日火曜日

NHKスペシャル:インパール作戦

天気:曇りのち雨
終戦の日に合わせて、NHKスペシャル「インパール作戦」を見る。
敗戦末期の1944年5月に行われた 最悪の愚かな作戦の代表でもある。
①部下たちの反対意見を押し切って、陸軍上層部が精神論で進めた。②戦況の実態を隠蔽し、作戦の中止・撤退の判断を誤らせた。③真実を語ることなく、忖度の環境で進められた。
結果として、3万人の戦死者、4万人の負傷者を出した。

しかし、現安倍内閣の一連の疑惑問題と非常に似ている事に気がついたのは私だけか。
現場の不利(?)な日報を隠蔽した 大臣を含む自衛隊上層部の無責任さ、岩盤規制に穴を開けるだけが目的の加計学園問題、政府や官僚に蔓延する忖度風土、など等は、恐ろしいほど戦時中の日本と似ている。
ああ・・・おそろしや~。

2016年11月2日水曜日

軍歴証明書

天気:晴れ
新聞の投書欄で知った「軍歴証明書」の発行を、県の健康福祉部地域福祉課恩給援護グループに申請をした。父の軍歴である。
当ブログの「葬られた戦争履歴」の更新が、資料不足で昭和18年で中断している。何とか、その資料と思って申請をしたのだ。
故人の個人情報ゆえ、身分証明書類と戸籍抄本を添えて10/13に送付して、3週間近く経過して、ようやく軍歴証明書が交付されてきた。内容はA4サイズ1枚で、ほぼ軍隊手帳と同じで、昭和18年以降の参考にはならない。戦後に、父が軍人恩給の申請時に軍隊手帳を転記したのではないかと思われる。
残念ながら、参考資料にはならない。

2013年11月10日日曜日

葬られた戦争履歴⑪:ラシオ挺進作戦

天気:雨
軍隊手帳の中に日本語読みの地名が多い。
 盤谷・・バンコク  泰・・タイ 佛印・・ベトナム(現)  金辺・・プノンヘン
 馬来・・マレーシア  昭南島・・シンガポール  蘭責・・ラングーン

1942年(昭和17年)2月15日パレンバン作戦が終了 したが、金辺に駐留しいた父(第1連隊)は、事後の作戦参加の為、馬来のスンゲイパタニに列車で行く。
  2月18日 作戦参加の為、金辺 出発
  2月24日 スンゲイパタニ 着 同地警備 ~3/8金辺に帰還

3/9ジャワ作戦が終了して、挺進隊にビルマ転進命令<ラシオ挺進作戦>。作戦は中国南部の雲南軍第56師団がビルマ北部から侵攻するにあったって、挺進隊がラシオで降下し挟撃・包囲するというものだ。第1連隊大隊と第2連隊中隊との集成連隊(武田少佐連隊長)で、挺進飛行隊45機、飛行第98戦隊(物)25機、飛行第64戦隊(加藤隼隊)30機、偵察機、地対空機の大作戦であった。
   3月18日 金辺 出発 ~3/21盤谷埠頭 出帆
   3月28日 昭南島 寄港 ~4/2 同地 出帆
   4月12日 蘭責 上陸
作戦の実行は5/5の予定であった為、随分ゆったりとした移動だ。が、第56師団の進撃速度が速く 挺進団は4/27~28を具申したが、飛行第98戦隊の集結が遅れ、4/29の天長節(天皇誕生日)に決行する事になる。しかし、当日の朝発進した天候偵察機が航空事故で連絡が取れず、天候を把握出来ないまま、降下部隊はラシオから500km以上離れているトングー飛行場を発進してしまった。結局、悪天候で降下できず、発進後中止命令が出て引き帰った。
   4月27日 作戦参加の為、トングーに前進
   4月29日 ラシオ挺進作戦に参加 
作戦は失敗に終わったが、第56師団は、4/29正午、ラシオに突入し占領した。

結局 、父は作戦に参加するも、またしても作戦を実行するに至らず、内地帰還するのであった。
   5月24日 蘭責埠頭 出帆
   6月29日 門司港 上陸

そこで、彼ら(挺進第1連隊)を待ち受けていたものは・・・

2013年11月5日火曜日

葬られた戦争履歴⑩:パレンバン挺空作戦

天気:晴れ
パレンバン作戦は、海軍の真珠湾爆撃作戦に対して、陸軍のマレー半島からオランダ領スマトラ島に、落下傘部隊がパレンバン飛行場とパレンバン油田、製油所に降下強襲する作戦であった。連隊本部、機関銃隊を持つ4個中隊の挺身隊、第2輸送中隊、飛行第98戦隊、飛行64戦隊(加藤隼戦闘隊)が援護するという大規模な、太平洋戦争開戦時の必勝を期した重要な作戦であった。
  
 1941年(昭和16年)
   12月19日  門司港 出帆 (明光丸
ところが、父たち(挺進第1連隊)を乗せた明光丸は、翌年1/3 中国海南島の三亜港沖で焼夷弾の自然発火で火災、沈没した。隊員は駆逐艦3隻に救助されるが、兵器、器材を全て失った。当然、父も九死に一生を得た。だが、
 1942年(昭和17年)
    1月10日  泰国 盤国(バンコク)港 上陸
    1月14日  仏印 金辺(プノンペン) 着
兵器、器材を失った挺進第1連隊に替わり、急遽、宮崎では60名を特別訓練し、総員329名で挺進第2連隊を編成、1/15門司港出港、2/3プノンペンに到着した。が、装備品を2個連隊分を持ち込んだ為、どちらの連隊が作戦に参加するのか決まらず いわゆる先陣争いとなっている。結局、挺進団団長である久米大佐が、第1連隊内に流行していたパラチフスの「病後静養を要す」との名目でおさめ、挺進第2連隊が作戦参加となる。父は、
    1月21日 第25兵站病院金辺分院に入院(A型パラチフス)
    2月 5日  同  退院
2/14~15 パレンバン挺進作戦が実行され、航空機40機、爆撃機27機がマレー半島を飛び立ち。パレンバン飛行場に240名、製油所に90名の挺進隊が降下、急襲し戦火を挙げる。
  相手の被害 飛行場・・英 蘭 豪の戦死者530人、
         製油所・・蘭の戦死者550人
  連隊の被害  降下者329名中 戦死者39名、負傷者47名
なお、日本国内では2/15 午後5時10分 「強力なる帝国陸軍落下傘部隊は・・・」で始まる大本営発表で、挺進部隊の活躍とパレンバン空挺作戦の成功を発表した。
 
が、父は作戦に参加せず、金辺(プノンペン)に駐留していた。 
    
*写真の部隊マークは「丸に斜め十字」   

2013年10月29日火曜日

葬られた戦争履歴⑨:挺進第1連隊

天気:曇り時々小雨
1941年(昭和16年)
  5月26日 竜江省平安鎮 着
    6/10~7/10 白城子陸軍飛行学校で航空勤務

ところが、
  7月15日 非南病院 入院 (8/16 退院)
  9月11日 内地移駐の為、平安鎮 出発
  9月18日 広島 宇品港 着
何が起こったのか。敵国に落下傘の訓練状況を悟られない為に、浜松陸軍飛行学校から満州のこの地に移駐して、白城子陸軍飛行学校教導飛行団を編成をしたが・・・。
緯度的には北海道稚内より北にあり、一日の寒暖の激しい大陸気候は苛烈であり、設備がそれに伴っていなかった。病気になる兵が続出で訓練にならず、僅か3ヶ月で内地に帰還することになった。内密で行動であったが、陸軍内部(東条大臣)での組織連携、意思決定がいかにも御粗末であったかだ。
   9月24日 宮崎県児湯郡新田村 着 (現 児湯郡新富町)
          陸軍新田原飛行場
10/3陸軍挺進練習部と改称して、同飛行場で降下訓練を実施している。世界の情勢はますます厳しく、開戦準備の作戦、編成が続く。
  11月5日 教導挺進第1連隊に編成、転属
   同日    同  第1中隊付
教導挺進第1連隊は4個中隊、挺進飛行隊、材料廠で編成されて、
  12月 1日 挺進第1連隊と改称 パレンバン作戦に動員下命
  12月 4日 挺進飛行戦隊(4個飛行中隊、1個飛行場中隊)編成完結

12/8 アメリカ合衆国戦線布告(真珠湾攻撃)太平洋戦争突入し、陸軍は南方進出し、マレー半島上陸を進める。12/17 挺進団は航空総監属を離れ、南方軍指令官属となる。
  12月13日 宮崎県児湯郡新田村 出発
  12月19日 門司港 出帆 (明光丸
しかし、明光丸は海南島(中国)三亜港沖で沈没・・・・・

  

2013年10月25日金曜日

葬られた戦争履歴⑧:白城子陸軍飛行学校

天気:雨
陸軍病院で「脚気」の療養をしていた1940年(昭和15年)の日本は?
今でも「1940年体制 」と言われる大政翼賛会発足の年だ。日中戦争が長期化し、アメリカとの決戦も視野にいれて、軍部を中心とした一党独裁の政治・経済システムで、国家社会主義的な戦時体制がますます出来上がっていった。
6ヶ月の療養期間で原隊(野砲兵38連隊)に復帰が叶わなくなった父は、補充隊(真野隊)に籍を置きながら身の振り方を模索していた。隊長からの情報だと思われるが、「陸軍 機動部隊要員」を志願し、
翌1941年(昭和16年)、
  1月24日 機動部隊要員志願 第二次身体検査
         (陸軍 航空技術研究所にて)
  2月 1日 浜松陸軍飛行学校出向(練習部練習員)
  3月 1日 陸軍伍長に昇進
   3月30日 浜松陸軍飛行学校で航空勤務
しかし機動部隊とは?

日中戦争以降、戦場が広地域になって行くと、海軍は戦艦から空母での作戦、陸軍も爆撃機による作戦に変化していった。列強各国も航空機中心の作戦を取り、空軍を独立させたが、日本国では空軍の設立まで至らず、両軍の運用となっている。その陸軍の航空機を使った機動部隊は、落下傘部隊であった。 1940年(昭和15年)5月 ドイツ軍が西部戦線で大規模な空挺作戦で効果を出しており、日本国は南方進出に合わせて、落下傘部隊の研究が始まった。
同年11月30日 浜松陸軍飛行学校練習部臨時編成の要領:(落下傘部隊に関する調査・研究及び試験を行う) が発令。1個中隊(将校25名、准士官以下45名)の編成で、翌年1月に軍から選抜された。兵は1ヵ月の地上訓練ののち、読売遊園地(二子多摩川)の落下傘塔で降下訓練をした。・・・父は2/1~3月末まではこの訓練に参加していたのだろう。

5月15日の軍令で白城子陸軍飛行学校練習部と改称。満州竜江省の白城子陸軍飛行学校に移駐する。理由は400人以上となった大量の要員養成を、諸外国に知られない 為という。
  5月16日 浜松出発~広島宇品港
  5月23日 大連港 上陸
  5月26日 竜江省平安鎮 着
         6/10~7/10 白城子陸軍飛行学校にて航空勤務
ところが・・・

  

         

2013年10月22日火曜日

葬られた戦争履歴⑦:脚気

天気:曇り
前回は、野砲兵38連隊で広東に出兵したが、僅か1ヵ月で、「南京下士官候補隊」への入校が決まったと書いた。しかし、その決定が何処で、何を基準でされたのかは判らない。

1939年(昭和14年)12月10日に「南京下士官候補隊」に入校した。約5ヶ月の教育を受ける予定だ。ところが、4ヵ月後の
 4月9日 南京陸軍病院に入院(脚気)。
脚気はビタミン不足が原因で、心不全、抹消神経障害をきたす病気で、下肢のむくみ、しびれがでる。当時の日本の脚気事情を調べる。明治から昭和初期にかけて大流行し、「結核」とともに二大国民病であった。年間の死亡者数も1923年(大正12年)26796人をピークに、1938年(昭和13年)まで2万人前後で推移している。明治時代から、ビタミンB1を含まない白米の普及が原因と考えられ、1939年(昭和14年)12月1日 白米の禁止と7分つき米の強制が法制化されている。
  5月16日 広島  上陸 ( 陸軍病院収容)
  5月28日 名古屋陸軍病院笹島分院 転送
  9月 6日  同        下呂分院 転地療養
 10月11日  同     東練兵場分院 収容
 
 10月22日 中部第八部隊 真野隊に編入
約6ヶ月半の療養生活を経て、野砲兵第3連隊の補充隊である真野隊に編入している。(原隊である野砲兵38連隊には復帰していない。)
しかし、戦争の最中でも一兵卒であっても、完治するまで大事にしているのは意外であると思われるが・・・。
だから、一方で
 4月 29日 勲八等 瑞宝章を叙勲(支那事変の功)
12月  2日 陸軍兵長に昇進
父の熱い気持ちは変わらず、陸軍が新たに編成する機動部隊に志願する。


2013年10月17日木曜日

葬られた戦争履歴⑥:野砲兵38連隊

天気:晴れ
1939年父の最初の配属は野砲兵38連隊第2中隊であった。激化する中国戦線の南支広東省の治安警備の為であったが、実際は参戦のようだ。
連隊は大隊3個、観測中隊、連隊本部で編成され、大隊は中隊3個、大隊本部で、中隊は小隊3個、小隊は分隊2個で編成されている。分隊は砲1本に下士官(軍曹~伍長)1名、兵7名、馬12騎だ。総兵数が600~700の集団で連隊長は大佐級が就く。一等兵の父は分隊の一員で砲を曳いていただろう。
  10月13日 大阪港出帆
  10月20日 南支 黄浦港上陸
  10月23日 南支 敦厚 到着~警備
ところが、ここで急遽、「南京下士官候補者隊」入校の辞令。南京にある支那派遣軍(中国戦線の総指令軍)直轄の教育機関で、5ヶ月の教育を経て原隊に復帰するのだ。
  11月26日 敦厚 出発 (27日砲兵上等兵に昇級)
  12月 7日 上海港 上陸
  12月10日 南京下士官候補者隊入校

卒業して復帰予定の野砲兵38連隊(昭和16年山砲兵38連隊に改編)は、昭和16年12月まで南支戦線の各作戦に参加。同年12月の太平洋戦争の開戦後は南方軍に派遣、ガタルカナル作戦に参戦するも敗戦、ラバウル防衛戦のまま終戦。編成中に亡くなった兵は680名を超える。
父が順調に卒業して原隊復帰をしていれば、山砲兵38連隊で戦死した可能性が高い。

2013年10月9日水曜日

葬られた戦争履歴⑤:新兵訓練

天気:雨時々曇り
国家総動員法の施行後(1938年5月)、はやる気持ちを抑えられず 父はその年の12月1日付で入隊をした。すぐに新兵訓練が行われるのだが、最初の5ヶ月間の内容は「軍隊手帳」には記載されていない為に不明だ。
一般的には(徴兵、志願兵とも)新兵訓練は、基礎訓練から実役まで約2年間のようだ。その間に適正に応じた兵種を選び、下士官候補 又は、まれに士官学校への進級も可能であった様だ。その期間に階級も上がり、半年で2等兵から1等兵に、1年で上等兵に、2年ごの訓練終了時点で兵長になるのが普通だ。
父は第3師団野砲兵第3連隊(名古屋)に入隊。
連隊名は編隊地を表して、第1師団は東京、第2師団は仙台、第4師団は大阪、第5師団は広島、第6師団は熊本で、いずれも編隊時期が明治17年と歴史のある師団だ。まずは、5ヶ月の座講を含む訓練。軍隊手帳に記載の勅諭や軍法の教育であったのだろう。
最初の実役の辞令は 1939年(昭和14年)5月1日
 第3師団野砲兵第3連隊補充隊第二中隊 砲兵二等兵
そこで約4ヶ月は実戦訓練をしていたと思われる。(転戦実績がない)
 
同年9月19日・・・野砲兵(山野砲兵)第38連隊
同年9月23日・・・同上 第二中隊
野砲兵第38連隊(名古屋)は中国戦線の為に6月30日に編成されていた。

父は10月1日付けで砲兵一等兵 に昇進し、中国南支戦線に行く。(10月13日出帆)
出国前には、どんな気持ちで 帰郷していただろう。



2013年9月30日月曜日

葬られた戦争履歴④:何故軍人に?1938年(昭和13年)に何があったのか

天気:晴れ
1937年(昭和12年)の盧溝橋事件から始まった支那事変の戦況はますます激しさが増していた。国内も熱く戦時体制を強化していった。

一方で、1938年(昭和13年)の父はどうだったのか?
戸籍謄本を調べると、父は五男四女の長男であった。生まれたのは1917年(大正6年)12月だ。しかし、不幸にも長女の姉は1925年(大正14年)に9歳で死亡、次男の弟が1935年(昭和10年)に17歳で亡くなっている。
そして、問題は1937年(昭和12年)からだ。四男の弟が8歳で7月に死亡し、祖母が10月に、そして、祖父が3ヶ月後の1938年(昭和13年)1月に亡くなっている。半年に3人の家族を失っていて、父にとっては相当な悲しい出来事であったに違いない。

当時の徴兵制度があり、満20歳になると4~5月に徴兵検査を受け、合格すると翌年1月には入隊する。兵役期間は陸軍2年、海軍3年だ。ただし、戸主と長男は兵役から免除される。
満20歳になっていた父も、1938年(昭和13年)4~5月に徴兵検査で甲種合格になった。が、父は、長男で家業の農業に従事しており兵役免除の対象者で、むしろ同年で17歳となっている三男が20歳になれば兵役義務があった。父が兵役に服すれば、三男は次の免除対象者となる。

1938年(昭和13年)12月1日付けで志願兵として入隊した。種々の要因が考えられるが、軍人を志願した本当の理由は判らない。しかし、社会が支那事変、国家総動員法の施行など激しい勢いで変わってゆく中、不安や危機、そしてナショナリズムの高揚も感じていたかもしれない。


2013年9月28日土曜日

葬られた戦争履歴③:何故軍人に・・1938年

天気:晴れ
前回、入隊前の昭和初期の社会情勢を調べたが、父が軍人になる理由を推測できるものが見つからない。しかし、手がかりは 1938年(昭和13年)にありそうだ。

前年の7月に盧溝橋事件から支那事変に突入して、中国との戦争は日毎激しくなっている、その年の12月には南京大虐殺の南京陥落、翌年1938年(昭和13年)2月には重慶に空爆、3月には最近写真が公開されて話題の上海掃討作戦が、5月には「麦と兵隊」の徐州を占領し、ますます戦況拡大されてゆく。
国内では支那事変に合わせて、近衛内閣は「国家総動員法」を4月1日に公布、5月5日には施行する。これは前回にも書いたように、全ての人的・物的資源を政府が統制するというものであった。
企業は国家の要求に生産を集中し、軍需を優先し民需は最低に切り詰める。労働者の雇用、賃金、労働時間なども国家が統制する。物価も統制され 、言論出版も統制の対象として、掲載制限する事となる。・・・ この「国家総動員法」は父が軍人になるきっかけの一端になったかもしれない。

 政府のプロパガンダはすざましく、2月16日に内閣府情報局から発刊された「写真週報」のタイトルが物語る。
 ”街に溢れる愛国行進曲” ”見よ、試練の日本 銃後の力 ” ”犬も戦士”
 ”一戸一品献納 折れ針も立派な武器になる”
 ”溢れる赤誠、旗の波”
 
国民はだんだんと国家の罠にはまって、戦争に巻き込まれていったようだ。
*次回は1938年(昭和13年)の父~入隊

2013年9月25日水曜日

葬られた戦争履歴 ②:何故軍人に・・

天気:晴れ
戦争について何も語らなかった父だが、実は、志願兵であった。”赤紙”と言われる召集令状による服役ではなく、彼は1938年(昭和13年)12月1日に20歳で、現役兵として志願して服役をしている。すでに日中戦争が勃発(1937年7月)している時期に、何故彼は職業軍人になったのか?葬られた戦争履歴を調べるのに、重要な疑問点だ。入隊前の社会環境から推測してみよう。

1917年(大正6年)12月20日、五男四女の長男として生まれ、当時は中規模農家の農業に従事している。

国際的には1918年に第1次世界大戦が終わり しばらくの好況も、1929年のウォール街の株の大暴落から世界恐慌に突入している。国内では、1923年( 大正12年)9月1日の関東大震災後の復興の時期、1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌で銀行の倒産、東北の大凶作があって、国内経済は大不況となっている。国内政治は1932年(昭和7年)5.15事件で犬養毅首相が暗殺、以後6年半で5人の首相が交代している。そして物価高、増税で国民の不満がつのる中、1936年(昭和7年)2.26の軍事クーデターにあるように軍部の力が政治の世界に入っていく。
1933年(昭和8年)中国からの撤退勧告案が可決され、日本は国連を脱退し、世界的に孤立化する。が、中国での国共軍との戦闘はつづき、1936年(昭和11年)12月には西安事件が勃発し、まさに一発触発の状況となる。1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件より支那事変(日中戦争)に突き進んでゆく。12月南京陥落、1938年3月上海掃討、5月徐州占領、10月広東占領、武漢占領、12月重慶爆撃・・・。

国際的にも国内的にも追い込まれた第1次近衛内閣は1938年(昭和13年)4月1日「国家総動員法」で、全ての人的・物的資源を政府統制するという戦時体制の強化をして、報道管制、のちには治安維持法により思想・報道弾圧を図る。
・・・そんな国内情勢の1938年に、父は軍人になる決断をしている。

2013年9月5日木曜日

葬られた戦争履歴 ①

天気:晴れ
父が亡くなって、まる13年が経過した。父としての父の思い出は沢山あるが、男としての父はあまり良く知らない。思想も混乱し、社会的にも不安定な時代の大正6年に生まれ、青春時代は第二次世界大戦につき進み、そして敗戦、戦後のどさくさと復興、平和の日本と、精神的にも、物質的にも、まさに波乱万丈の人生であったと思われる。聞かないかぎり解からない、生まれてから戦後までの父の事を知られていない。
父の青春は軍人であった。他の人もそうであったように父も同様、戦争の事を話そうとしなかった。ただ一言、「馬鹿な戦争をした」と言うのを聞いた事がある。
何故、彼は戦争体験の履歴を葬ったのか?
13年を経過したことと、冷静に彼を理解出来る今となり、ひも解く事にした。

軍人時代に使っていたかばんがある。その中には大事なものと思われる、結婚前の母からのラブレターと「軍隊手帖」(写真)であった。その手帖には入隊(昭和13年)からの履歴が綴られている。