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パレンバン作戦は、海軍の真珠湾爆撃作戦に対して、陸軍のマレー半島からオランダ領スマトラ島に、落下傘部隊がパレンバン飛行場とパレンバン油田、製油所に降下強襲する作戦であった。連隊本部、機関銃隊を持つ4個中隊の挺身隊、第2輸送中隊、飛行第98戦隊、飛行64戦隊(加藤隼戦闘隊)が援護するという大規模な、太平洋戦争開戦時の必勝を期した重要な作戦であった。
1941年(昭和16年)
12月19日 門司港 出帆 (明光丸)
ところが、父たち(挺進第1連隊)を乗せた明光丸は、翌年1/3 中国海南島の三亜港沖で焼夷弾の自然発火で火災、沈没した。隊員は駆逐艦3隻に救助されるが、兵器、器材を全て失った。当然、父も九死に一生を得た。だが、
1942年(昭和17年)
1月10日 泰国 盤国(バンコク)港 上陸
1月14日 仏印 金辺(プノンペン) 着
兵器、器材を失った挺進第1連隊に替わり、急遽、宮崎では60名を特別訓練し、総員329名で挺進第2連隊を編成、1/15門司港出港、2/3プノンペンに到着した。が、装備品を2個連隊分を持ち込んだ為、どちらの連隊が作戦に参加するのか決まらず いわゆる先陣争いとなっている。結局、挺進団団長である久米大佐が、第1連隊内に流行していたパラチフスの「病後静養を要す」との名目でおさめ、挺進第2連隊が作戦参加となる。父は、
1月21日 第25兵站病院金辺分院に入院(A型パラチフス)
2月 5日 同 退院
2/14~15 パレンバン挺進作戦が実行され、航空機40機、爆撃機27機がマレー半島を飛び立ち。パレンバン飛行場に240名、製油所に90名の挺進隊が降下、急襲し戦火を挙げる。
相手の被害 飛行場・・英 蘭 豪の戦死者530人、
製油所・・蘭の戦死者550人
連隊の被害 降下者329名中 戦死者39名、負傷者47名
なお、日本国内では2/15 午後5時10分 「強力なる帝国陸軍落下傘部隊は・・・」で始まる大本営発表で、挺進部隊の活躍とパレンバン空挺作戦の成功を発表した。
が、父は作戦に参加せず、金辺(プノンペン)に駐留していた。
*写真の部隊マークは「丸に斜め十字」
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