2013年10月17日木曜日

葬られた戦争履歴⑥:野砲兵38連隊

天気:晴れ
1939年父の最初の配属は野砲兵38連隊第2中隊であった。激化する中国戦線の南支広東省の治安警備の為であったが、実際は参戦のようだ。
連隊は大隊3個、観測中隊、連隊本部で編成され、大隊は中隊3個、大隊本部で、中隊は小隊3個、小隊は分隊2個で編成されている。分隊は砲1本に下士官(軍曹~伍長)1名、兵7名、馬12騎だ。総兵数が600~700の集団で連隊長は大佐級が就く。一等兵の父は分隊の一員で砲を曳いていただろう。
  10月13日 大阪港出帆
  10月20日 南支 黄浦港上陸
  10月23日 南支 敦厚 到着~警備
ところが、ここで急遽、「南京下士官候補者隊」入校の辞令。南京にある支那派遣軍(中国戦線の総指令軍)直轄の教育機関で、5ヶ月の教育を経て原隊に復帰するのだ。
  11月26日 敦厚 出発 (27日砲兵上等兵に昇級)
  12月 7日 上海港 上陸
  12月10日 南京下士官候補者隊入校

卒業して復帰予定の野砲兵38連隊(昭和16年山砲兵38連隊に改編)は、昭和16年12月まで南支戦線の各作戦に参加。同年12月の太平洋戦争の開戦後は南方軍に派遣、ガタルカナル作戦に参戦するも敗戦、ラバウル防衛戦のまま終戦。編成中に亡くなった兵は680名を超える。
父が順調に卒業して原隊復帰をしていれば、山砲兵38連隊で戦死した可能性が高い。

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