天気:曇り時々小雨
1941年(昭和16年)
5月26日 竜江省平安鎮 着
6/10~7/10 白城子陸軍飛行学校で航空勤務
ところが、
7月15日 非南病院 入院 (8/16 退院)
9月11日 内地移駐の為、平安鎮 出発
9月18日 広島 宇品港 着
何が起こったのか。敵国に落下傘の訓練状況を悟られない為に、浜松陸軍飛行学校から満州のこの地に移駐して、白城子陸軍飛行学校教導飛行団を編成をしたが・・・。
緯度的には北海道稚内より北にあり、一日の寒暖の激しい大陸気候は苛烈であり、設備がそれに伴っていなかった。病気になる兵が続出で訓練にならず、僅か3ヶ月で内地に帰還することになった。内密で行動であったが、陸軍内部(東条大臣)での組織連携、意思決定がいかにも御粗末であったかだ。
9月24日 宮崎県児湯郡新田村 着 (現 児湯郡新富町)
陸軍新田原飛行場
10/3陸軍挺進練習部と改称して、同飛行場で降下訓練を実施している。世界の情勢はますます厳しく、開戦準備の作戦、編成が続く。
11月5日 教導挺進第1連隊に編成、転属
同日 同 第1中隊付
教導挺進第1連隊は4個中隊、挺進飛行隊、材料廠で編成されて、
12月 1日 挺進第1連隊と改称 パレンバン作戦に動員下命
12月 4日 挺進飛行戦隊(4個飛行中隊、1個飛行場中隊)編成完結
12/8 アメリカ合衆国戦線布告(真珠湾攻撃)太平洋戦争突入し、陸軍は南方進出し、マレー半島上陸を進める。12/17 挺進団は航空総監属を離れ、南方軍指令官属となる。
12月13日 宮崎県児湯郡新田村 出発
12月19日 門司港 出帆 (明光丸)
しかし、明光丸は海南島(中国)三亜港沖で沈没・・・・・
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