1939年(昭和14年)12月10日に「南京下士官候補隊」に入校した。約5ヶ月の教育を受ける予定だ。ところが、4ヵ月後の
4月9日 南京陸軍病院に入院(脚気)。
脚気はビタミン不足が原因で、心不全、抹消神経障害をきたす病気で、下肢のむくみ、しびれがでる。当時の日本の脚気事情を調べる。明治から昭和初期にかけて大流行し、「結核」とともに二大国民病であった。年間の死亡者数も1923年(大正12年)26796人をピークに、1938年(昭和13年)まで2万人前後で推移している。明治時代から、ビタミンB1を含まない白米の普及が原因と考えられ、1939年(昭和14年)12月1日 白米の禁止と7分つき米の強制が法制化されている。
5月16日 広島 上陸 ( 陸軍病院収容)
5月28日 名古屋陸軍病院笹島分院 転送
9月 6日 同 下呂分院 転地療養
10月11日 同 東練兵場分院 収容
10月22日 中部第八部隊 真野隊に編入
約6ヶ月半の療養生活を経て、野砲兵第3連隊の補充隊である真野隊に編入している。(原隊である野砲兵38連隊には復帰していない。)
しかし、戦争の最中でも一兵卒であっても、完治するまで大事にしているのは意外であると思われるが・・・。
だから、一方で
4月 29日 勲八等 瑞宝章を叙勲(支那事変の功)
12月 2日 陸軍兵長に昇進
父の熱い気持ちは変わらず、陸軍が新たに編成する機動部隊に志願する。
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