天気:雨のち晴れ
母の手紙をきっかけに、伯父から『名古屋空襲』の話を聞く。母の手紙の空襲は1945年3月12日、19日と思われるが、その前、2月15日に明道町にあった支店が空襲で被害に遭っているそうだ。3月12日、19日の空襲では、西区にあった本店兼住宅は被害がなかったが、(19日の空襲で名古屋駅は延焼) 名古屋城が炎上した5月14日の空襲で家族は焼き出される(母は4月に嫁ぎ水戸に転出)。当時18歳の伯父は、両親、病気がちの兄、妹、の5人で疎開、今で言えば難民の旅に出る。馬車に家財道具を乗せ、歩いて最初は「稲沢」に向かい、途中、空襲に遭うと 犬山の知人に身を寄せる。その間には、6月に名古屋全滅の大空襲、7月9日岐阜、7月12日一宮の空襲があり、五人は、より遠方の岐阜の可児へ疎開する。そこで終戦をむかえるのだが、駅まで妹を迎えに行った帰り道に、涙して歌った『人生の並木道』を思い出すそうだ。
”泣くな妹よ、妹よ泣くな 泣けば幼い 二人して 故郷を捨てた甲斐もない
遠い淋しい 日暮れの道で 泣いて叱った 兄さんの 涙の声を忘れたか
雪も降れ降れ 夜道の果ても やがて輝く あけぼのに 我が世の春は きっと来る
生きて行こよ 希望に燃えて 愛の口笛 高らかに この人生の並木道”
0 件のコメント:
コメントを投稿