天気:雨
陸軍病院で「脚気」の療養をしていた1940年(昭和15年)の日本は?
今でも「1940年体制 」と言われる大政翼賛会発足の年だ。日中戦争が長期化し、アメリカとの決戦も視野にいれて、軍部を中心とした一党独裁の政治・経済システムで、国家社会主義的な戦時体制がますます出来上がっていった。
6ヶ月の療養期間で原隊(野砲兵38連隊)に復帰が叶わなくなった父は、補充隊(真野隊)に籍を置きながら身の振り方を模索していた。隊長からの情報だと思われるが、「陸軍 機動部隊要員」を志願し、
翌1941年(昭和16年)、
1月24日 機動部隊要員志願 第二次身体検査
(陸軍 航空技術研究所にて)
2月 1日 浜松陸軍飛行学校出向(練習部練習員)
3月 1日 陸軍伍長に昇進
3月30日 浜松陸軍飛行学校で航空勤務
しかし機動部隊とは?
日中戦争以降、戦場が広地域になって行くと、海軍は戦艦から空母での作戦、陸軍も爆撃機による作戦に変化していった。列強各国も航空機中心の作戦を取り、空軍を独立させたが、日本国では空軍の設立まで至らず、両軍の運用となっている。その陸軍の航空機を使った機動部隊は、
落下傘部隊であった。 1940年(昭和15年)5月 ドイツ軍が西部戦線で大規模な空挺作戦で効果を出しており、日本国は南方進出に合わせて、落下傘部隊の研究が始まった。
同年11月30日
浜松陸軍飛行学校練習部臨時編成の要領:(落下傘部隊に関する調査・研究及び試験を行う) が発令。1個中隊(将校25名、准士官以下45名)の編成で、翌年1月に軍から選抜された。兵は1ヵ月の地上訓練ののち、読売遊園地(二子多摩川)の落下傘塔で降下訓練をした。・・・父は2/1~3月末まではこの訓練に参加していたのだろう。
5月15日の軍令で
白城子陸軍飛行学校練習部と改称。満州竜江省の白城子陸軍飛行学校に移駐する。理由は400人以上となった大量の要員養成を、諸外国に知られない 為という。
5月16日 浜松出発~広島宇品港
5月23日 大連港 上陸
5月26日 竜江省平安鎮 着
6/10~7/10 白城子陸軍飛行学校にて航空勤務
ところが・・・